趣味のバイクが中心のブログになりそうです 美容の事もチラホラと
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僕が生まれたのは1961年(昭和36年)
美祢の豊田前という当時石炭で栄えた町でした。
(下の写真は大嶺です)
1960年代〜'70年代にかけて、欧米文化が一気に入ってきました。
終戦後の復旧から、住む食べるといったあたりまえの生活の中に、日本人の暮らしにも少しゆとりができ始めたのでしょうか。
ラジオ、テレビ、電話、音楽、ファッション、映画 . . . も、この頃普及しました
情報のなかった日本に外国の情報が一気に入ってくるきっかけがそこにあったからかもしれませんね。
人間誰しも、新しく見聞きするものに対しては、新鮮であり、美しく思います。
そして、それも見慣れてくると、飽きもして、又新鮮に思える何かを探し始めます。
そう言った意味では、'60年代〜'70年代は、かつてないほどの文化の変革時代だったと言えるのではないでしょうか。
このころ日本は国中が「外国人コンプレックス」にさいなまれていました。
そしてトレンドとして爆発したのが「ブリーチ」でした。
ここが日本のカラーリング史の黎明期だと思います。
髪の脱色に、ビールやオキシドールを使うのが流行っていたりしました。
勿論黒髪のブリーチですし、当時のカラー剤は今ほど良くないので髪の毛はボロボロでした。
当時のお手本は、
カトリーヌ・ドヌーブ
マリリン・モンロー
オードリー・ヘップバーン
ミュージシャンのファッションやヘアースタイルなどもこぞって取り入れようとしました。
ダンス、車、サーフィン、スキー、ボーリング、ローラースケート . . .
それらにも独自のファッションがあり、それぞれにおきまりのヘアスタイルがありました。
そこにも欧米人のマネをする文化があり、それが日本人の髪の色を明るくする文化とも結びついていたように思います。
僕が美容師になった'70年代後半 . . .
当時はサーフィンがブームでした。ディスコはマハラジャの少し前の時代。
ヘアスタイルはファラフォーセットメジャースがお手本でした。
サーフファッションにも、髪の色は明るく潮焼けに見せる必要がありました。
それと平行するように日本ではアイドル時代をむかえていました。
聖子ちゃん、明菜ちゃん、他にも可愛い女の子や、カッコ良い日本人スターが大勢出てきました。
それに伴って欧米人に対するコンプレッスもしだいに薄れてきたのか、マネる対象が日本人へと移ってきたのがこの時代だと思います。
日本におけるカラーリングの過渡期へと入っていったのではないでしょうか。
髪の明るさが落ち着いてきたのもこの頃でした。
スーパーダメージヘアーのブリーチ時代が、そう長く続くはずもなく、ひとまず休息の時代でした。
'80年代のバブル期、クラブのお立ち台でジュリセンを持って踊っていたワンレン・ボディコンのギャル達の多くは黒髪でした。
お立ち台で黒く揺れるストレートヘアは、スポットにあたって更に引き立っていました。
やがてバブルが崩壊し、'90年代に安室奈美恵が現れ、その後、浜崎あゆみなども続き、空前の茶髪ブームが始まります。
ざっと僕が生まれた50年前にさかのぼって日本女性の髪色を振り返ってみました。
あくまでも、おおまかな山谷のお話しですが、その間にも細かい山谷の繰り返しがあり、欧米人に憧れて重く見える黒髪を明るくしたり、ファッションや文化に合わせて暗くもしてみたり、又季節によって変化させてみたり、日本人の髪色遊びも多様化し、個人々が自分なりの方向性を見いだせるようになってきたのが今の時代のような気がします。
こんな方々も日本のカラー史に足跡を残されたましたね ^^
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